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研修医日記/医療法人社団 札幌皮膚病理診断科
Sapporo Dermatopathology Institute
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宮下文/6月日記
■第29週(6.23~6.27)
札幌はさわやかな日が続きます。来週、滋賀に帰省しますが、蒸し暑いのでしょうね。
22日の日曜日はサッカー、対バーレーン戦、何とか勝ちましたが、WC出場できるのでしょうか・・・
今週はちょっと変わったミステリーを読みました。1996年出版の古本です。アメリカの小島が舞台で、日系の移民、漁業、イチゴ作り、偏見、太平洋戦争時の強制収容が取り扱われます。殺人の謎よりも興味深かったです。Louis Duhring先生史の後半です。
デューリングの価値は、皮膚医療への一つの貢献からは計算できません。
誰よりも、彼はこの国の尊敬される専門家として皮膚科学の確立に対して責任があって、その形成的な年に最高水準を維持していました。
それでも、彼の仕事の頂点は明らかに有名なヘルペス状皮膚炎に関するレポートの連続です。
Skin Diseases(1876)の彼のアトラスとSkin Diseases(1877)の上のPractical Treatiseは彼の2つの最も広範囲な全集でした、そして、後者は自国と同様にヨーロッパに彼の名声を広げるのに大いに役立ちました。
彼はCutaneous Medicineと表題をつけられる相当な百科事典的な仕事を開始して、第3の部分のための最初の材料を完了しました。そして、著者ががっかりしたことには、彼は仕事を完了することができませんでした。
彼は裕福になったので、デューリングの慈善は、ペンシルベニア大学を大きくし、フィラデルフィアでCollege of Physiciansの素晴らしい図書館を拡大する方へ大いに尽力しました。
若い頃には社会的役割が好きで、明るくて、気楽であるけれども、彼は後には内気でまじめになったので、アーサーヴァンハーリンゲン(彼の最も親しい友人のうちの1人)は言いました ― 「後年には、私が彼の微笑を見たか、彼が笑うのを聞いた、いかなる出来事も思い出すことができません。仕事への彼の没頭は、絶対で、完全でした。」
若い婦人の早すぎる死亡がこの変化を促進したことが示唆されました。
デューリングは、彼の人生を通じて性質がはっきりしない病気で悩まされました。
心臓過敏症の症状と支配的な不明確な腹部の不安。
1885年の神経衰弱は、ほとんど彼の経歴を終了しました。
彼は、直接的に、または、間接的に、1913年5月8日に回腸の絞扼で亡くなりました。
皮膚科学の功績は偉大なのに、私生活はあまり幸福ではなかったようですね。



■第28週(6.16~6.20)
東北地震、秋葉原無差別殺人、そして作り置き点滴による死亡
    恐ろしい事件が続きます。
今週は、Louis Duhring先生の紹介です。
いつものCLASSICS IN CLINICAL DERMATOLOGYがやや多くのページを割いていますので、2回に分けます。
1845年12月23日に、Louis Adolphus Duhringは、フィラデルフィアで生まれました。
彼の家族は著名で、裕福でした。
男の子として、彼は勉強好きで、読書家でした。
私立フィラデルフィア学校の初等教育とペンシルベニア大学の学部で勉強した後、この大学の医学部に入学して、1867年にNervous Goutと表題をつけられる卒業論文を提出して、卒業しました。
そして、フィラデルフィア病院(Blockley)で研修中に、皮膚医療に対する彼の関心は最初に明らかになったのですが、それは、彼が診ていた老人の皮膚の痛みを伴う神経腫の症例によってでした。
研修終了後、当時この国ではほとんど関心をもたれていなかった皮膚科学で、特別なトレーニングのためにヨーロッパへ旅立ちました。
彼は、彼の人生のあらゆる仕事をマークした熱意と激しい集中でヨーロッパの方法を研究することに次の2年を費やしました。
ベルリン、パリとロンドンで彼は詳細な調査をしましたが、彼の最も有益な月を過ごしたのはウィーンででした。
達人中の達人、Hebra、さえ、彼のすばらしい仕事に感動しました。
彼はまた、コンスタンチノープルで東洋の皮膚病を、ノルウェーでハンセン病を研究しました。
1871年に、彼はペンシルベニア大学の皮膚の病気に関するLecture、1876年のDermatologyのClinical教授と1890年の正式な教授に任命されました。
彼は、1910年に彼の引退まで学校と直接関係しているままでした。



■第27週(6.9~6.13)
気候が不安定で暑かったり、寒かったりします。
12日は、札幌ドームに日本ハム対巨人戦を見に行きました。
元巨人ファンの私は、一塁側に席をとったのですが、ふがいないジャイアンツについファイターズを応援してしまいました。
13日はお誕生日会をしていただきました。
北海道で子供と二人、思いがけないことに、なんだかジーンと嬉しかったです。
Paget病で有名なPaget先生の紹介です。
James Paget
James Paget卿は1814年、1月11日、Yarmouth(England東部の都市)で生まれた。
父親は成功している、船主で商人で、兄弟が16人いた。
少年時代は植物学と昆虫学に興味があった。
予備教育の後、Mr. Charles Costeron(地方の内科医)に弟子入りした。
1834年に見習い期間を終わり、LondonでSt.Bartholomew's Hospitalに入学した。
Pagetは同病院史上最も優れた学生で、彼が容易にやり遂げなかった、学生名誉はほとんどない。
1年目に、よく知られた寄生旋毛虫の発見がなされた。
1836年に卒業した。
フランスで短期間勉強したあと、Englandに戻り、St.Bartholomew's Hospital Museumの館長になり、病理学で、後には、生理学の講師となった。
1847年、外科助手になり、College of Surgeonsnのために、シリーズの講義もした。
これらの講義は、病理学と生理学のより新しい概念を解剖学と関連させることに成功し、Pagetは英国医学で最も前途有望な青年となった。
彼は“彼の時代の第一の外科医”としての地位英国外科の頂点に登りつめた。
国で最も重大で、最も有利な仕事なし続けることに加えて、彼は多くの教育や組織的な仕事をする時間も見つけ、技術的と臨床的と両面から、外科のすべての観点についての多くの論文を書いた。
業績は
Osteitis deformans
Tuberculosis in the aged
Sequellae of typhoid fever
Peripheral nerve injuries
Paget's disease
Pagetは暖かい心の持ち主で、その態度は敏感で、言葉少なく、率直だった。
ほとんど敵がいなかった。
スポーツは好まず、ホイスト(トランプ遊び、ブリッジの前身)の名手で、音楽に造詣が深く、ハイキングを好んだ。
晩年は平和で、1899年12月30日に亡くなった。



■第26週(6.2~6.6)
やっと初夏の気候と思ったら、また低温の日が続きます。
よさこいソーラン祭というのに、雨も降っています。
でも文字どおり、雨にも負けず、皆さんがんばっていますね。
Balloon cell nevusをちょっと勉強しました。
Balloon cell melanoma
Balloon cellが腫瘍細胞の過半数を占めるMalignant melanomaのことをいう。
Balloon cellは核がshrunken lookingでhyperchromaticだが、pycnoticではない。
細胞質はabundant and finely vacuolated, with scattered melanin granules
Cytoplasmic size, content of melanin and outer borderは様々
Melaninは存在するが、scarce and irregulariy distributed
   “washed out”lookingが特徴
他のmelanomaと臨床像や臨床経過に違いはない。
Baloon cell nevusとの鑑別が重要。
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